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私について

数奇な人生の中で得たものを還元していく

私は本当のところは、平凡に普通に穏やかに人生を歩みたかったのですが、私がこれまで歩んできた道は凸凹で時にジェットコースターのように激しいものでした。

失敗だらけ、傷だらけ、自分のダークサイドとの直面、気がつけば何もかも失って、最後に残ったのは命だけ。しかし、大切だと思っていたすべてのものを手放したとき、私の人生は奥底から輝き始めました。今は、私の得たものを還元していくことをライフワークにしています。

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略歴

 

1982年 愛知県名古屋市生まれ

2000年 スペインドイツに留学(現代美術・リベラルアーツ)

2006年 早稲田大学人間科学部卒業
2006年 外資系銀行入行(リテール・バックオフィス)

2007年 外資系保険会社に入社(マーケティング)

2010年 イギリスに留学(アートマネジメント)

2012年 個人事業主(Catinco.un)として起業

2016年 コーチングと出会い学びと実践開始

2019年 アート事業を縮小し、業務を人材育成・研修講師 ・コーチの仕事を拡大​

2020年 株式会社THE COACH 参画

2022年 合同会社No Borders設立

2022年 ARUKUKI株式会社設立

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喫茶店の看板娘

1982年、アヴァンギャルドな父と箱入り娘の母のもとに愛知県名古屋市で私は生まれた。両親が喫茶店を営んでいたこともあり、ものごころついた時から周りに沢山人がいた。

喫茶店の名はマスターシュ。父のトレードマークであった口ひげから付けられた。店はアメリカ帰りの父と古風な母、両親のセンスが響き合う雰囲気のある店だった。話好きな父と気の利く母の切り盛りする店はいつも賑やかであったと記憶している。

両親が喫茶店を始めたのは、私が生まれた直後。

 

さかのぼること、両親の新婚旅行。そこで母が「いつか喫茶店をやってみたい」と呟いたのを父は聞き逃さなかった。父は愛する母のために、全力で喫茶店立ち上げの準備をし、母の夢を叶えた。

私の父はかなり変わった人で、アメリカでの生活が長かった影響もあるのか、日本文化に全くハマらない人だった。会社に入って定収入を得ることが安泰に繋がるという発想を持ち合わせておらず、お金は自ら生み出すものであり、自由自在に増やせるのだという世界観で生きていた。

父の自由奔放な破天荒っぷりは、その後、家族の波乱を呼ぶことになる。母は保守的で世間体を気にするタイプだったので、2つの極に割れた価値観の対立は後年すさまじいものとなる。

​私の破天荒なところは、父に似ているとよく言われる。(父の方が100倍ひどいと思うけど)

 

喫茶店時代の私の記憶は一人遊びをしているものが多い。一人静かに絵を描いて過ごすことが好きだった。人見知りが激しく、お客さんたちに「可愛い!」と構ってもらうのは苦手だった。とはいえ、両親以外の大人たちに可愛がってもらえたことは、私にとって大切な思い出だ。

喫茶店

優等生

私が3歳になるころ、弟が生まれたのを機に両親は喫茶店をやめた。
父は定職につき、母は実家の会社に入った。この頃から、教育熱心な母は、幼い私に読み書きや英語の学習をさせ始めた。近所に住んでいた従兄弟も同じように勉強をしていたので、私も一生懸命頑張った。

小学校に上がる頃には、私の学力はかなり進んでいた。小学生時代の私は、絵、作文や習字などを提出すれば賞を取るし、成績も行儀も良く、文句のつけようのない良い子だったように思う。

一方でたまに「こういう生き方をやめたい!」という衝動が湧くこともあった。

良い子でいることにウンザリした時は、こっそりと鉛筆を折ったり、仮病を使い塾を休んだりしていた。ネガティブな感情を表に出すことは、良くないことだと教育されていた。私はイライラする感情のやり場のなさに戸惑うことも少なくなかった​。

我が家は商売人家系の影響か、血縁の関係性以外に、組織内における上司部下の関係性が一族の中に根付いていた。祖父母は私の「おじいちゃん・おばあちゃん」であると同時に「母の雇用主」であもあった。祖父母から見ると私は「孫」であると同時に「後継者ではない女の子」であり「社員の娘」でもあった。この幾重にも絡み合った役割は、今後の人生において私を悩ませることになる。
 
家族と組織という関係性は複雑であったものの、私は組織が好きだった。学校帰りに祖父の会社に立ち寄っては事務所内の人間模様を観察していた。学校では教えてくれない、人間関係の不思議さはこの観察から学んだ。この頃から、リーダーの影響力に注目を寄せており、役職者の在り方でチームの動きが変化することに不思議さを感じていた。

経営者である祖父は畑を持っており、その手伝いをする傍ら、祖父から畑と経営の共通点や人の闇の話を聞くのが好きだった。また、祖父の会社では知的障害の方たちを雇用しており、彼らと家族のように関わりながら組織づくりをしていたことも、私に大きな影響を与えた。今、組織開発の仕事をする上でこの視点はとても役立っている。

優等生

植物人間になる

小学校の高学年になる頃には、他者の期待に盲目的に応える自分の生き方に嫌気がさし、鬱っぽくなりかけていた。私はもともと自由奔放な部分を持っているのだが、当時はこの奔放さは「女の子らしくない」「生意気」とされ、私は自分らしく振舞うことを諦め従順になっていた。
 
このまま、いい学校に入って、いい会社に入って、いい人と結婚して・・・という人生を想像すると、人生はとてもつまらないもののように思えた。夏休みの家族旅行もクリスマスも、形式的な行事で中身が無いように感じられ、年々楽しくなくなる自分に違和感を感じるようになっていた。
 
そんなある日、高熱が出て学校を何日か休むことになった。体感的に「いつもの風邪と違うなぁ」なんて思っていたら、あれよあれよという間に歩けなくなった。難しい脳の病気だった。
緊急入院した日から次第に体が動かなくなり、最後にはまばたきもできなくなった。ベッドに、横になったまま動けない私はとことん無力だった。

ある晩、ベッドの脇で、医師が母に「今晩が山です」と伝えるのがかすかに聞こえた。当時、私はその意味を知らなかったが泣き崩れる母の声を聞き、自分は今晩死ぬのだと悟った。

死を目前にして、悲しい気持ちになるのかなと思いきや、私に悲しみはなかった。家族を愛していたが、なぜか未練はなかった。おそらく、私は人生にとても疲れていたのだと思う。

白い光に包まれるようにして、その夜私は眠りに落ちた。「これで、人生終わるんだな」と思いながら。
 
しかし、翌朝、強いカサブランカの香りで目が覚めた。
​お見舞いでいただいたカサブランカの香りが病室いっぱいに広がっていたのだ。この花が私を呼び戻してくれたように感じられた。

​その後、植物状態から奇跡的に回復した。そこから、私の2度目の人生が始まったように思う。

植物

受験と不登校

植物人間の状態から奇跡の復活を遂げた私は、不本意ながら精神的な発達を遂げてしまった。強烈な自我が芽生え始め、他者の期待に応えるのではなく、奥底から湧き上がる「自分を生きたい」という衝動を抑えきれなくなっていた。しかし、そんな私の変化は周囲からは受け入れてもらえず「退院してから、言うこと聞かなくなったよね?頭がおかしくなった」と親からも親戚からも言われるようになった。

 

実のところ、それまで周りの言うことに従順に生きていたので、自分の意見が言えるようになるという変化に私自身も驚いた。自分は悪い子になってしまったのではないかと、自分を責めることもあった。

それまでの「従順な自分」と「自己主張が出来る自分」との葛藤で苦しんでいる中、中学受験というイベントがやってきた母自身が中高一貫の女子校出身ということもあり、母の私に対する期待は大きかった。私は「公立に行きたい」と希望を伝えてみたものの、この中学受験というものを回避することはできず後ろ向きな気持ちで受験に臨んだ。

無事、中学には合格したものの、1年生の冬には原因不明の頭痛でベッドから起き上がることができなくなった。状態が悪化し入院をした末、不登校になった。病院では自律神経失調症との診断が下り、親子でカウンセリングを受けることになった。

不登校

​家族の呪い

原因不明の体調不良は中学3年の終わりまで続いた。その間、定期的に母娘でカウンセリングに通った。カウンセリングは母とは別で行われる。私は大人を信用していなかったのだろう。守秘義務が守られるはずがないと思い、最初の数か月はカウンセリングルームで沈黙を貫き通した。

 

せっかく入学した学校に行けなくなり、勉強も疎かになり、体調不良で歩くだけでもフラフラする自分は生きている価値がないと本気で思っていた。悪いのは根性の無い自分だと思い込んでいた。早くこの世界から消えてなくなりたいと願っていた。

 

しかし、カウンセラーの辛抱強い関わりをきっかけに、私は少しずつ自分のことを話せるようになっていった。話していくプロセスの中、自分が悪いと思い込んでいたけれど、私だけが悪いわけではないのかもしれないという視点を持てるようになっていった。

家族とのつながりの中で、私に何らかの現象が起こっているのだと、初めてシステム(※)として家族を捉えることが出来た。家族のシステムの歪みによって、私に何かが起こったかもしれないという気づきは大きかった。

実のところ、体調不良になるまで、自分の家族に原因があるとは思っていなかった。詳細を記すことは差し控えるが、家族や親戚の中に根付いている男尊女卑文化、親戚からの性的ハラスメント、モラルハラスメント、暴力など表には見えないところで様々なことがあった。辛いことがある度に、気持ちを抑圧し誰にも言わずに墓場まで持っていかなくてはと思っていた。​私が我慢すればいいと思っていた。

(※)システム:お互いに影響しあう要素や構造のつながり

呪い

​ARTとの出会い

カウンセリングや自己内省の期間を経て、私は少しずつ回復していった。そして、高校からは不思議と学校に通えるようになった。登校できる体力と気力があることに喜びを感じる反面、またすぐに体調が悪くなってしまうかもしれないという不安もあった。

不登校の間、家族や親戚から問題児として扱われていたこともあり、私の自己肯定感は地に落ちていた。そのため、高校に通い始めたころは「私、このクラスにいてもいいのかな?」とどこか気まずい気持ちがあった。

私のそんな気持ちとは裏腹にクラスメイトは気軽に話しかけてくれ友達もできた。そして、ある日私は友達に「私、中学行ってないの」と打ち明けた。カウンセラー以外の人に、自分のことや感情を伝えるという経験がなかったのでドキドキしたが、意外にも友人たちは「別にいいんじゃない?」と誰も私の不登校を問題視しなかった。その体験は私にとって今も大きな救いになっている。差別されたこともあるが、そうでない人がいる世界を知っているのは大きい。

高校1年の最初の美術の授業の後、私が描いたりんごのデッサンのことで担当教員に呼び出された。

「あなたの作品には底知れぬ何かがあるから専門的な勉強をしてみると良いと思う。ここに行ってみてはどうかな」と美術研究所のパンフレットを手渡された。

落ちこぼれの自分に未来はないと思っていたが「私には縁のないところに思えるけど、行ってみようかな」と、緊張しながら研究所の扉を叩いた。そこは、まるで夢の世界だった。アトリエには社会の枠に収まりきっていない個性が爆発している高校生たちが沢山いた。アトリエには画材やモチーフが溢れておりワクワクした。

 

自分が絵を描くのが大好きだったことを一瞬で思い出した。

体中の血が騒ぐのを感じた。

私は、それまで世界はほとんど非言語​であると感じてきた。非言語を思いきり表現できる場所に触れホッとした。

 

それまで私は、言語では表現しきれない感覚を誰とも分かち合えないことに寂しさも感じていた。この微細な感覚をARTを通じて表現できるのは、この上ない喜びだった。常識の枠組みに囚われない仲間とのやりとりも最高だった。私は夢中でARTにのめりこんでいった。

ART

​Who am I

美術研究所に通い始めた直後、先生から「ナラゼミがあるから必ず来るように」と言われた。それが一体何のかわからなかったが、言われるがままに当日アトリエに向かった。

 

アトリエでゼミが始まるのを待っている間、ガムでも食べようとカバンをゴソゴソしていると、見知らぬ男子生徒が「俺にもちょうだい!」と話しかけてきた。私は快く渡し、彼は屈託のない笑顔で受け取り、私の隣に座った。

そうこうしている間に先生が来て「では、ナラさん、今日はよろしくお願いします」と挨拶をした。奈良さんはドアから入ってくるのかと思いきや、私の隣でガムを噛んでいた彼が「どーもー、よろしくお願いしまーす」と立ち上がった。彼が現代美術作家、奈良美智さんだった。よれよれのTシャツに履き古したデニム、寝ぐせでぐしゃぐしゃの頭を搔きながら、彼のゼミは始まった。

皆の前で楽しそうに講義をする奈良さんを見て、私の心はざわざわした。私は落ちこぼれで家族のお荷物で何の取り得もない。学校の先生の薦めで、ここに来たけれど全然自信がない。絵を描くのは好きだけれど、価値発揮できるものや自慢できるものなど1つもなかった。

ゼミは、そんな私に「そんなキミはどう生きるのか?」をとことん問うてくれた時間だった。これまでの人生が最悪だろうが何だろうが「今、どう生きたいの?」「他者からの評価なんか関係ない!今この瞬間キミはどうしたいの?」と。

「Who are you?」あなたは誰?

「Who am I」私は誰なんだろう・・・?この哲学的で実存的な感覚がとても新鮮だった。
 

当時、彼はドイツに住んでおり、現地のART事情やこれまでの人生やプライベートなこともなんでも話してくれた。狭い世界の中で、鬱屈としていた私は、彼のような人が同じ地球上に存在していると知れただけでとても嬉しかった

ゼミは私にとって大きな転機となった。

​研究所では気の合う仲間が沢山出来て、少しずつ世界がカラフルに感じられるようになっていった。LGBTQ、複雑な家庭、帰国子女、起業している人など様々な10代が集まっていた。個性をバッシングされても動じない仲間たちの逞しさに勇気をもらった。

​一方で、私が私らしさを開放していくにつれ、親からは「こんな子じゃなかったのに」とため息をつかれることや衝突が増えていった。

キミは

​かけがえのない仲間

美術研究所には個性的な人が沢山いた。同じ高校生とは思えない程、色々な意味で突き抜けている人が多かった。クラスの中に「普通は○○でしょ」「○○するのが当たり前」などという言葉は無かった。むしろ、そういった世間一般な価値観に対しての反骨精神がすごかった。

仲間たちは、頭の回転早いし、容姿も良いし、センスも良いし、自由だし、度胸があるし、思考が柔軟だし、一体どうしたらこんなに突き抜けられるのかという粒ぞろいだった。後から聞いた話だが、私の学年だけが突出してユニークだったそうだ。当時の仲間は国内外で活躍しており頼もしい限りだ。

そんな仲間に囲まれ、共に絵を描きまくる日々を過ごしていくうちに、いつの間にか、私も皆と並ぶほどのトンデモな女になっていた。

 

そんなある日、金髪でカーリーヘアのとんでもなく素敵な子がクラスに入ってきた。何をどう表現すれば良いのか困る程、彼女は異彩を放っていた。彼女は絵がずば抜けて上手い上に、デザインの課題や彫刻の課題なども、いつもぶっちぎりでセンスが良かった。しかも、話がめちゃめちゃ面白かった。

そんな彼女とは自然と仲良くなっていった。彼女と私は、不思議と共通点が沢山あった。誕生日が1日違い、姓が同じ、親の年齢が同じ、弟の年齢が同じ、家紋が同じ、父親の性格がそっくり等、挙げればきりがない。

他愛もないことを延々と話し、くだらないことに時間を費やし、バカなことを沢山やったように思うが、そんな時間こそが実は大きな価値があったように感じる。

彼女を含め、仲間たちと過ごした3年間は輝かしい時間だった。凸凹で社会からはみ出したような個性的な人間の集団だったけれど、とてもイノベーティブで刺激的だった。あの頃の経験が、今の私の礎になっている。

 

ちなみに、私の個人事業主の屋号はこの頃、彼女と一緒に考えたものだ。私の名前と彼女の名前をアルファベットにして交互に並べ替えると「Catinco」になる。今、彼女も個人事業主であり、彼女の屋号は「Catinco」で、私の屋号は「Catinco.un」だ。

​高校生の頃「私たちいつかアートで起業しようね!」と言っていたことが現実になるのだから、人生は面白い。

仲間

​スペインへ

美術研究所では来る日も来る日も絵を描きまくった。残念ながら大学受験では最終試験で不合格になってしまったのだが、それを機に海外に行くことを決めた。幸いなことに、我が家は世間体を過度に気にする文化を持っていたため、浪人生を家に置いておくより留学させた方が、家族や親戚の精神衛生上、都合がよかったこともあり前向きに応援してもらえた。

 

行先はスペイン、バルセロナ。

カタルーニャ文化という独自の文化を持つ、地中海沿いの街だ。

眩しい太陽と強烈な影、豊かな食文化、底抜けに陽気で魅力的な人たち。​私はスペインを気に入った。耳慣れないスペイン語は音楽のように聞こえた。私は毎日たっぷりと陽の光を浴び、よく歩き、よく食べ、よく学び、よく寝た。自分の命の力が回復していくのを感じた。

一方で、留学するからには結果を出さなければというプレッシャーもあった。私は猛烈な勢いで語学を習得し、スペイン入りから半年後にはバルセロナにあるピカソの母校に入学した。家の近くのアトリエにも通い始め、1日の大半をARTに費やし、一応形式的には何かを達成したはずだった。しかし、私の中で何か違和感が膨らんでいった。

 

ある日、先生に「私がやりたいのは現代社会に問いを投げかける現代美術なんだと思う。ここでは、それが学べないような気がする。それが違和感になっている」と相談してみた。先生は少々困った顔をしながら「君は・・・来るところを間違えてるよ。現代美術をやりたいのなら、ロンドンかパリかベルリンだよ」と教えてくれた。

先生もアトリエもバルセロナも大好きだったが、迷った挙句、本当にやりたいことをやっていくことに決めた。

スペイン

​ドイツへ

私は自分が求めている現代美術を学べる場所は、何となくベルリンなような気がしていた。私はすぐにバルセロナからベルリンのフライトを予約し、数日後には空港に降り立っていた。ベルリンの空港を出て外の空気を吸った時、私はここで暮らすんだろうなという直感が走った。

ベルリン滞在中、素敵なご縁があり、数日のうちに引っ越し先と学校を見つけることが出来た。そして、その1か月後には私はベルリンに移住していた。この件について、親に事前に相談しようかと迷ったが「せっかくスペインで基盤が整ったのだからやめなさい」と言われることが目に見えていたので、事後報告することにした。案の定、事後報告の際には予想通りの反応をされた。

親には感謝しているのだが、私の生き方とは違う部分も多く、沢山心配をかけたし、私も傷ついた。

 

ベルリンでは美術と音楽の仲間たちと夜な夜な集まっては飲みながら、政治や歴史や芸術の話に花を咲かせた。沢山のアーティスト、音楽家や批評家の方々に囲まれ、私は多くのことを吸収した。その一方で、私は自分のアイデンティティの儚さに自覚的になることが増えていった。

当時のドイツの現代美術の仲間たちに問われ続けたのは「コンセプト」だった。いくら見栄えがよく素敵な作品を創ったとしてもコンセプトが甘ければそれは作品になり得ないという具合だ。作品のコンセプトの根幹にあるのは「自分」である。自己認識・自己理解が浅い限り、作品を創ることすら出来ない。

私は1982年、愛知県名古屋市に女性として生まれて、どのようなバックグラウンドを持ち、何に課題を感じ、どのように生きてきたのか。私の生まれた日本という国はどのような国で、その歴史は私のアイデンティティとどう関係しているのか、当時の私は満足に語ることが出来なかった。

 

それは、現代美術を学ぶスタートラインにも立っていないことを意味した。

深い挫折を味わった私は、自分を見つめなおすため日本の大学に入りなおす決意をする。

ドイツ

​失意の帰国

幸いにもドイツでの挫折と日本の大学の受験のタイミングが合い、流れのままに早稲田大学に入学した。そこで私は自分のアイデンティティを探求すべく、なるべく多くの人と関わる機会を持つことを心掛けた。そんな中、友人に誘われて、当時東京藝術大学の教授であり現代美術作家であった川俣正さんのゼミに関わらせてもらうことになった。国内外における彼の展覧会の手伝いをする中で、うっすらと「ARTって、生き様なんだなぁ」と感じるようになっていった。

また、ART市場にも興味を持っていた私は、ARTに投資をしている方たちとも交流するようになっていった。ARTの世界では、投機目的で作品を売買することは歓迎されていないので、彼らは表向きには純粋な愛好家ということになっていた。シーズンになると、ニューヨークのオークションの招待状を手配してもらい、ニューヨークまで飛んだ。そこは別世界であった。オークショニア(競売人)が小気味よく競りを進めていく。たったの3分程で数十億円の作品がどんどん落札されていくのを見て、お金に対する価値観はずいぶん変わったように思う。

オークション中は欲しい作品に対して、自分の予算内で札を上げる。片手を上げるだけで、日本円で数千万円が上乗せされていくのに、前に座っている人も、横に座っている人もクールな表情でどんどん札を上げる。3回上げるだけでも5億円程上がってしまうのに、全く気にしていないように見えた。世の中には色々な世界があるものだと知った。

ニューヨークでは魂が響き合うような素敵な友達も出来た。アーティスト・批評家・コレクター・投資家・教育者、それぞれの視点からARTを眺めるうちに、だんだんARTが何なのかわからなくなってしまい、大学生活の後半は自分で作品を創ることをやめてしまった。

私が大学で人間にまつわる基礎教養とARTを探求していた傍ら、実家では一族内での揉め事が頻発していた。そのため、私は火消し役として東京と名古屋を往復することも多かった。両親が金銭トラブルに巻き込まれたり、父の入院、母の精神不安など、なかなかハードな日々が続いた。私自身もストレスでバランスを崩し、摂食障害になってしまった。さらに、不運は重なり、実家に危機が訪れ私への仕送りがストップした。

 

そこで急遽、私は生活費を稼ぐために銀座でホステスのアルバイトを始めることにした。

アルバイトで入ったお店が良かったのか、危惧していたハラスメント的なことは全くなく、私に対する店側の期待も知的な会話ということだったので双方のニーズが合い働きやすかった。銀座では、海外のエグゼクティブの接待の席につかせてもらうことが多く、欧州企業のマネジメントの話などは大変勉強になったし、ドイツ語や英語が使えるのも嬉しかった。

当時、様々な会社の経営者の方々の横で沢山話を聞けたことはとても良かったなと思う。今のリーダーシップ開発の仕事にも生きている。

帰国

​ソウルメイト

東京で大学生をしていた頃「あなた、ニューヨークに知り合いも友達もいないなんてどうかしているわ?私が紹介してあげるよ!」と友人に言われた。その友人はドイツに住んでおり、グローバルに活躍していたこともあり、私の将来を心配してくれたのであろう。

後日、友人はすごい勢いで「ニューヨークの人と繋いであげる!先方に話はしてあるから!1週間くらい泊めてくれるらしいわ」という連絡をくれた。

私の知らないところで、ずいぶん話が進んでいた。笑

まだ、顔も名前も知らないのに、1週間も泊めてくれるのか・・・。人類皆兄弟という感覚なのかなと思い、この話に乗っかることにした。

たまたまシカゴに用事があり渡米したついでに、ニューヨークに立ち寄ることにした。友人が繋いでくれた人に連絡をすると、まさかの!男性であった。

男性って聞いてないよー!!と驚くも、パートナーと暮らしていることを知りホッと一安心。教えてもらった住所を訪ね、ドアのベルを鳴らそうとしたその時、そこに現れたのが、彼のパートナーであった。

「やっぱり、早く来てよかったー!普段、この時間は私たちは家にいないんだけれど、あなたが早めに到着するんじゃないかって直感があって急いで帰ってきたの!」

彼女はとってもキュートな人だった。初対面であるにもかかわらず「一応、彼から聞いているんだけど、詳しいことは知らないの。とりあえず、ウェルカム!!」と快く家に迎え入れてくれた。そして、手際よく育てているハーブを摘みオリジナルカクテルを作り「これ、お気に入りなの」と振舞ってくれた。

 

出会って5分程で酒を振舞ってくれる彼女の在り方が、なんだかとっても素敵で私は一瞬で彼女のファンになった。ミントやセージの香りの効いた爽やかなカクテルの味が身体に染みわたっていくのを感じた。

その後、彼女の部屋でシカゴであった出来事やお互いの話など何時間も話した。

不思議なことに、私たちは波長がぴったり合い、信じられないほど話が通じた。家族のこと、兄弟のこと、パートナーのことなど、驚くほど境遇やパターンが似ていた。

そんな彼女とは、それ以来大の仲良しで今でも毎年欠かさず会っている。​どんなに離れていても、お互いのことが何となくわかる。ソウルメイトって、こういう感じなんだろうなと思う。

ソウル

​就職と結婚

就職は、周囲の友人たちの声を参考にしつつ、ARTとも関係がある外資系金融機関がいいかなぁという理由で決めた。正直、実家のトラブルのストレスが大きくて、今後の人生においてどのような仕事がしたいのかわからなくなっていたのだが、運よく拾ってもらえた。

気がつけば、私は24歳になっていた。

すると突然、母から「早く結婚しなさい」という連絡が来るようになった。連絡の頻度はエスカレートしていき、しまいには母は当時付き合っていた彼にまで個別連絡をして結婚を促すようになっていった。最終的に、私はノイローゼになり、それを見かねた彼が折れる形で結婚が決まった。

実は、母も祖母から同じことをされていたことが後になってわかった。25歳までに結婚できないと大変なことになると思い込んでいたようだ。

2人とも結婚するつもりがない中での結婚だったが、もともと付き合っていた相手でもあるし、最大限の努力をして幸せな家庭を築いていこうと私は思っていた。

しかし、私の予想を遥かに超えるレベルで2人の価値観はズレていた。私は一緒に家庭を築いていくという前提で結婚をしたつもりだったのだが、彼は違っていた。彼は現代美術のアーティストであり、そもそも家庭という枠には到底収まりきらない人であった。

結婚生活は、私のイメージするものとはかけ離れていたが、気合と努力と根性で何とかなる!と、当時の私は自分の力を過信していた。幸いなことに職場の環境に恵まれ、温かい雰囲気の中働けたことは救いになった。家のストレスを会社で癒すような日々が続いた。

月日が流れるにつれ、私の負担は増していった。生活費と家事の負担だけではなく、気がつけば彼の展覧会に出すための作品を制作し、ギャラリーとの調整や作品のコンセプトにも私が関わっていた。

 

「あれ?全部、私がやっている・・・?」

私はまるで自分の背中に彼をおぶって生活をしているような不思議な感覚に包まれた。次第に私は、何の為に生きているのかわからなくなり徐々に鬱状態になっていった。

25歳の私には背負いきれないものを背負ってしまったような気がした。この生活が一生続くのだとしたらと思うと涙が止まらなくなり、出かける気力もなくなった。彼に「私は心療内科にかかった方がいいレベルな気がする」と相談するも、受診を反対され、ますます私は根性を振り絞り自己犠牲的に生きるようになった。

お互いに望んでいるわけではないにも拘わらず関係性はどんどん悪化した。それを、止めることは出来なかった。

ある日、限界が訪れ実家に相談した。その際「離婚だけはしてはいけないよ。もっと努力できると思う」と言われ、私の中の何かがプツンと切れた。自分の家族、彼の家族、彼に深い怒りを感じる一方で、私の内側には虚無感が広がっていった。​そんな中、転機が訪れる。

結婚

​イギリスへ

生活に限界を感じながらも、何か可能性はないかと悩んでいたところに、リーマンショックの影響を受け、早期退職の話が舞い込んできた。条件を聞くと、目玉が飛び出る程の好条件であった。ある種の極限状態に達していた私は「これで、彼を養いながら別居できる!!」とよくわからない理由で即退職を決めた。

別居するなら、きちんと冷却期間が置けるようなるべく遠い場所、そして私のやりたいことが出来る場所、さらには彼の仕事を手伝うのに役立つスキルが身につけられる場所に行こうと思った。それが、ロンドンだった。

色々な面で私は自己犠牲的に生きすぎており、それ以上いくと取り返しのつかないことになりそうだった。別居のことを彼に相談したら反対されるとわかっていたので、全ての準備を水面下で終え出発の直前に伝えた。彼との大喧嘩の後、私はロンドンに旅立った。

ロンドンでの生活は満身創痍の私にピッタリな、冬のどんよりした季節から始まった。暗く小雨の多いロンドンで、クラスメイトは気が滅入っていたようだが、私にとってはその暗さが心地よかった。

一人で勉強したり散歩をしたりするのが好きだったが、新しく出来た友達と出かけることも好きだった。日本では誰にも相談できなかった夫婦の問題や実家の問題についても、英語の勉強がてら色々な人に話してみた。私の話を聞いた彼らは「キミはプリズンブレイク(脱獄)してきたんだね!」と冗談交じりにハグをしてくれた。

そこで、私は育った環境や結婚生活が、いわゆるDV(ドメスティックバイオレンス)だったということに初めて気がついた。それに気がつくと、不思議なことに気持ちが楽になった。

​DV被害者は自分が被害に遭っていることに気づかない。DV加害者も加害者である自覚がない傾向があると聞いたことがあったが、本当にそういうものなんだなと思った。

ロンドンで暮らしている間、これまでの人生をしっかり振り返った

体調や精神面は日に日に回復し、再びARTを探求する日々が始まった。​至福の時間だった。

アートマネジメントのクラスでは、久しぶりに巨額のお金の動きを感じた。クラスメイトの半数以上は普通に暮らしていたら出会わないだろうなぁという感じの人たちだった。世界の超富裕層1%が資産の37%を独占しているなんて言われているけれど、それを目の当たりにする感じだ。しかし、そういった人達がアカデミックなものを真剣に学んでいるところに救いも感じた。

1年のロンドンでの生活を経て、私の心は癒され、DVを克服してもう一度結婚生活をやり直せるかもしれないという思いに至った。私の人生において取り組むべき課題に思えたのだ。DVに関する海外の文献を読み漁り、帰国した。

London
妊娠

​妊娠と絶望

帰国直後、1年の別居期間を通じて、夫婦の関係性を見直して再スタートを切れたように思えた。しかし、私の妊娠発覚を機にその幻想は崩れ落ちた。大黒柱である私の妊娠は歓迎されなかった。​歓迎されないまま結婚生活を続けることは、私にとって大きな怒りと痛みを伴うものだった。

妊娠には喜びや祝福があるものだと思っていたが、そうではない世界があることを知った。私のように辛い妊婦さんも少なからずこの世にいるのだと思うと余計に胸が痛んだ。私はこの経験をしたことで、はじめてこの歓迎されない妊娠という視点を得た。

それでも、結婚生活の存続の可能性を最後まで模索し、我が家に似た事例を扱った論文はないかと探しては読み漁った。多くの論文を読んだ結果、この結婚生活の問題の原因は、お互いの生育暦にあるという可能性に行きついた。

自分たちを超えて、親や先祖から持ってきている問題というレベルになってくると途方もない感じがした。私の努力で家庭の問題を解決できると思っていたが、夫婦の関係性は別居前よりも悪化してしまい、このまま結婚生活を続けることに少しの希望も可能性も見いだせなくなっていった。

​彼に悪気はないことは理解しているものの、DVは私の許容範囲を超えていた。打てる手は打ち尽くして、もう何の手も打てなくなった。

妊娠後期、私は荷物をまとめて家を出た。

里帰り出産をするという名目で実家に戻り、今後の人生について考えた。たまに彼が名古屋に立ち寄った際に会うことはあったが、会う度に私の身体に激しい悪寒と吐き気のような発作が起こり、関係性の修復は無理だと悟った。

そんな中での出産だった。陣痛がきた時、病院には母が付き添ってくれたが「痛い」という言葉は一言も発しなかったと思う。陣痛はかなり痛かったのだが、平気なふりをして「大丈夫」と作り笑いをする自分がいた。思い返せば、母に甘えた記憶というものがほとんどなかった。出産という場においても、私は頼り方がわからなかったのだ。

無事に生まれた娘を見た時「この子にはのびのびと自分を生きてほしい」と強く思った。そのためには、私自身が根本的に変わる必要があった。

あまりにも過酷な妊娠期間であったこと、とても孤独を感じていたことから、娘を愛せるのか不安だったが、生まれた瞬間から、彼女は私にとってかけがえのない存在になった。

別居をしたまま、​娘が3ヵ月の時に離婚した。私の実家は離婚やシングルマザーに対する偏見があったため、離婚後の姓を旧姓に戻すことが出来なかった。今でも、シングルマザーであることを理由に差別されることはあるけれど、自分の家族に一番差別されたことで免疫がついたように思う。

(今は差別されていません)

離婚後、大きな絶望感とともに実家を出た。

シングルマザーとしての人生が始まった。

​起業と子育て

離婚し、実家を離れた私はしばらくは貯金を切り崩し生きていくつもりでいた。しかし、人生とは面白いもので、ひょんなことからマイホームを建てることになった。ローンなしで契約。数千万円という現金を全てそこに突っ込んだ。結果、全財産が一瞬にして消えた。

産後・離婚後のホルモンバランスの乱れが影響したのだろうか。今、振り返ってみても、当時の私の意思決定は極めて大胆だと思う。私は、所持金0だが何故か家だけ持っているという謎のシングルマザーになった。

「金がないなら、稼げばいいだけだ」世界はシンプルに出来ている。

というわけで、私は日銭を稼ぐため、持っているスキルで出来るサービスを作り起業した。幸いにも大学時代に身に着けたデザインと編集スキルを駆使すれば、グラフィックデザインというものが出来るらしいということがわかった。そして、私の知識と経験を駆使すればアートのコンサルティングも出来るということがわかった。四六時中、娘を抱っこしながら朝から晩まで、仕事の仕組化とコンテンツ創りに勤しんだ。

 

奇しくも、同じ時期に母が長年勤めていた実家の会社から突然解雇されるという出来事があった。母は一時期、気がふれたようになっていたが、母も自分の人生を生きるため起業をするという選択をした。私は自分の仕事もしながら、母の起業も手伝い、0歳の娘を育てるというカオスな日々が始まった。

ここから少しだけ、母の話をする。

​私の母もまた、実の親に翻弄されるという人生を送っていた。

母が実家の会社を解雇されたのは55歳。それまで、母は従順ないい人として生きてきた。母は自分の親に逆らったことは一度もないという。自己犠牲的に尽くし続けてきた母の末路は、誤解され何の前触れもなく理不尽な形で解雇されるという残念なものだった。解雇された後も、母は実家との関係で気苦労が絶えなかった。

 

私は起業したものの、仕事以外の面で周囲から意見されることが増えていった。私がシングルマザーであることは、一族にとっての恥なのだと感じた。再婚を勧められ、数えきれないほどお見合いをしたが、満身創痍だった私は日々の生活で精一杯でとても再婚は考えられなかった。

 

起業後1年ほどの間に、私は何度も過労で倒れた。幼い娘は重い喘息で、毎月のように救急診療に駆け込んだ。私も母も娘もヘトヘトになった。他者や世間体のために、身を粉にして頑張ってきたけれど、自分たちは根本的に間違っていたのではないかと思うようになった。

私は自分の母に対して、母は自分の母に対して、内的に区切りをつける必要があった。

私は私。あなたはあなた。私とあなたは違う。

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。

私はあなたの期待には応えられないけれど、あなたの幸せを願っている。

私は私を生きる必要がある。そうすることが、私の幸せ。

​ゲシュタルトの祈りにも似ているが、自然とこんな境地に至った。

 

すると、私と母の関係性、周囲との関係性が変化してきた。状況が目まぐるしすぎて、それまでゆっくりと娘と向き合うこともできなかったけれど、少しずつ娘との時間にゆとりが持てるようになった。

起業

​アメリカへ

娘が2歳を過ぎたころ、私のストレスは限界に達していた。どんなに仕事を頑張っても、子育てを頑張っても、シングルマザーであることを理由に心無い言葉をかけられたり差別をされることがあった。こんなにもシングルマザーに対して潜在的な偏見があるとは、当事者になるまでわからなかった。気にしなければ良いのだが、娘のことまでバイ菌扱いされると、さすがにショックが大きかった。

婦人科系の治療のためクリニックに通っていたところ先生から「ストレスで子宮の状態が壊滅的になっています。今すぐに全てのストレス要因を排除しないと取り返しのつかないことになる」と言われた。私の中の女性としての命が深く傷ついた感覚になった。

私は診断を受けた後、衝動的にニューヨークの親友に連絡した。「しばらく、そちらに滞在させてほしい」とお願いした。全ての仕事に区切りをつけ、2歳の娘を連れ、私はニューヨークに旅立った。

アメリカに入国する際、子連れの長期旅行が珍しかったのか、色々なことを聞かれた。私は手短に、これまでの人生、出産、離婚、起業、体調不良のこと、この旅行は私の生きる力を回復させることが目的の大切なものであることを伝えた。すると、担当者は涙ぐみながら「あなたの選択を応援する。ここまで来れてよかった。しっかり休養してね!」と笑顔で通してくれた。

空港には親友が車で迎えに来てくれていた。真っ赤なVOLVOから颯爽と手を振る彼女がまぶしかった。髪はぼさぼさ、すっぴんの私とは対照的で、恥ずかしかった。娘は私との旅行が本当に嬉しかったようで、ずっとご機嫌だった。彼女の家で最初に飲んだビールの味は忘れられない。久しぶりに「生きてる!」という感覚になった。

 

娘を連れ、ニューヨークの街をよく散歩した。私はクリスチャンではないが、教会を見つけると入って一番後ろの席に腰を掛け、全体を見渡しながら雰囲気を味わった。そして、どうか私を助けてほしいと祈った。人に頼るのは苦手だが、神様にはすんなり「助けて」と祈れる自分のことを少しおかしく思ったりもした。

ニューヨークの親友は私のボロボロさに驚愕し、下着から洋服まで「買いなおすべし!」とアドバイスをくれショッピングに連れ出してくれたり、私の好きなARTが堪能できるよう美術館に連れていってくれた。そうして私は少しずつ回復していった。

1週間もすると、忙しい彼女の家に居候しているのが申し訳なく思えてきて、勢いでカリビアンクルーズに申し込んだ。カリブ海を2週間ほどかけて周遊するクルーズの旅。娘を連れ、ニューヨークからフロリダに飛び、そこから船に乗った。その選択は、私の人生の中でもTOP5に入る程、素晴らしいものだった。

船に乗っている日本人は私と娘だけ。乗船中、多くの時間は電波が届かず、地上の人々とはコンタクトが取れない。あるのは、娘と空と海と風だけ。そして、ともに乗船している人々。船にはプールや広いデッキがあり、そこで娘とよく遊んだ。すると、自然といろいろな人と仲良くなった。

「こんなに可愛い子、見たことない!世界で一番可愛いと思う。この子は世界の宝だよ。こんな子のママだなんて、あなたは幸せ者だね」

日本とは違い、私と娘の存在を全部肯定して祝福してくれる皆の言葉を聞いて涙が溢れた。世界にはこんなに愛に満ちて温かい人たちがいるんだなと知れて嬉しかった。

アメリカではシングルで子育てをしている人は珍しくないこと、誰になんと言われようと子育ては尊いものだということ、命は何よりも大切だということ、今この瞬間を楽しむこと、色々なことを彼らに教えてもらった。

アメリカ

​自分らしく生きる

アメリカから戻った私は、それまでの仕事に違和感を感じるようになった。生活のために出来ることを出来る範囲でやっていたが、本当にやりたいことかと問われると「NO」だった。

 

かといって、何がやりたいのかもわからず悶々とする日々が続いた。生活は出来るけれど、喜びがない。お客さんには喜んでもらえるけれど、私は心底は喜んでいない。このループから抜け出す必要性は感じていたものの、抜け出し方がわからなかった。

そんな時、ニューヨークの親友の悩み相談にのることが増えていた。なんとか彼女の力になりたいと一生懸命に話を聞いたが、彼女の人生はスタックしたままだった。もっと上手に話を聞きたいと思い、その方法を模索していたところ「コーチング」に行きついた。

 

​コーチングの基礎を学んだは良いものの、実践できるイメージが全く湧かなかった。しかし、私の傾聴力は知らぬ間に向上していたようで、彼女の人生はどんどん好転しはじめた。彼女から「コーチングを学ぶ前と後では傾聴レベルが全然違う!」というフィードバックをもらい嬉しくなった。

 

私は彼女の悩み相談に対して、コーチングをしていたわけではなく、ただ聞いていただけなのに、何かが変わった。私は、もしかしたらコーチングは自分の持ち味に合っているのかもしれないと思うようになり、本腰を入れてコーチングのトレーニングを受けることを決めた。

コーチングの他にも、やってみたかった事をやり始めた。京都まで染織を学びに行ったり、お琴を習ったり、茶道と華道の稽古も再開した。これまで、起業や子育てのために、切り捨てたものたちを猛烈な勢いで取り戻していった。

染織もお琴も茶道も華道も、お金にならないし、子育ての役に立たないから必要ないと切り捨てていた。でも、それは間違っていた。私の人生を創造するヒントが、そこには沢山詰まっていた。それらを通して、私の精神性はどんどん磨かれていった。稽古の場に娘を同伴することで、彼女の知性や教養もじっくり涵養されていったように思う。

私は少しずつ、自分の中の「こんな風に生きたかった」「こんな風に過ごしたかった」に許可を出していった。

自分

​いのちをいただく

本当にやりたいことを制限なくやってみよう。

そう思って始めたのが染織。糸を染め、織るのが染織。現代の染織工芸は、平安時代の公家文化や安土桃山時代の武家文化、江戸時代の町人文化などによってうみだされた美の結晶である。

 

きっかけは、何気なく見たNHKの特番だった。

そこに映っていたのは、大きなお鍋に手を入れ、そこから光る糸を出す志村ふくみ先生の姿だった。

直感的に「これは、学びにいかないと!」と思った。

当時、私は人生迷走中であり、自分が何がしたいのかさっぱりわからなかった。そんな中で、ピンと来たという理由で名古屋から京都まで通い染織を学びに行くということは、周りからみたら、頭がイカれているように見えただろう。実際に、母からはかなり非難された。

それでも、やってみた。

仕事に繋がるのかもわからないし、染織家になりたいわけでもない。でも、あの光る色の正体を掴まないことには始まらないと思った。アート畑の端くれとして、どうしても、あの「色」に触れたかった。

ふくみ先生の手を介すと糸が命を帯びる。そして、ふくみ先生が織るとまるで部屋全体が共鳴したように何かが起こる。

そこで私は学んだ。

染織はHowではない。誰がその行為をするか。その人の内面で何が起こっているのか。それが本質的にとても大切なのだ。これは、何にでも通じることだけれど、どのような在り方で生きるのかはとても大事だ。

ふくみ先生は、実に実存的な方だ。「いのち」を真に尊重している。だから、植物に対して「染料」などとは思わない。植物に敬意を払うのだ。

彼女は言う。

「染めるんじゃないの。いのちをいただくの」と。

染織を学んで以来、植物の声が聞こえるようになった。たしかに生きている。そして、私たちが気づかぬ速さで成長しているし、私たちよりもずっとクレバーでスマートな存在なのだ。

​この時の経験は対人支援に生きている。

いのち
k琴

​琴とわたし

やりたいことを制限なくやってみようということで染織とともに始めたのが琴である。私の名前は「琴乃」ということで、琴には縁がある。私の母は10代から琴を嗜んでおり、その音色の素晴らしさが私の名の由来である。私が幼い頃は、母は家で弾いていたりもしたのだが、当時は全く興味がなかった。

 

琴という楽器はもともと、神様とコンタクトをとるために使われた呪具であった。古代では、琴を奏でることにより、現実世界、魂の世界、霊界といわれるような世界をつなぐことが出来ると信じられていた。

私が琴を弾くようになり感じるのは、たしかに、次元の違う世界とつながっている感覚があるということだ。

まず、手で弾くのではない。

全身を使って弾く。そうしないと、そもそも音が出ない。糸と爪が触れて音が出るのと、琴の真の「音」は全くの別物である。

だから、これも染織と同じくHowではない。

誰が、どのような内面世界を包括しながら弾くのかが肝なのである。

親指でポーンと糸をはじくだけで、自分のコンディションがわかる。自分の軸がブレていると、音が出ないし、曲が弾けない。厳密に言うと、楽譜通りに間違えずに弾いたとしても、そこに「いのち」がない。

本当に良いコンディションで弾いた時には、時空が歪む。弾き手も聞き手も一気に違う世界線に入る感覚があり全身に鳥肌が立つ。15分程の曲が30秒ほどに感じられる。

静かに自分と対話をしたいとき、琴が良い相棒になってくれている。

​そして、琴とわたしが「我・汝」の関係になった時、少しずつ何かがほぐれていくのを感じた。

​3度の事故と入院と調停

自分の人生を生きると決めた私であったが、日常生活の中で、何度も過去のパターンに戻りそうになることがあった。その度に、その気づきをノートに書き出した。過去のパターンが現れなくなったら、それを小さな紙に書いては燃やした。紙が燃えてなくなるのを見ていると、私の内側の何かも昇華されていくような感覚になった。

 

他者から期待された役割を生きるのではなく、自分を生きることは想像以上に難しいことだった。私とは何かが、自分の言葉でうまく語れない。「私」と思っていたものが「役割」でしかなかったことに気づいた時、本当の「私」があるとしたらそれは何なのだろうか。役割を生きる方がよほど簡単なように感じられた。

 

この時期、私は連続して交通事故に遭った。3回中2回は廃車になるレベルだったので、わりと大きな事故だったと思う。いずれも、相手側の100%過失による追突であった。どの事故も、私は奇跡的に無傷だった。

 

事故に遭っていた時期は、私の人生の移行期と重なる。

時折、くじけそうになる私に、運命が「自分を生きろよ!!」と喝を入れていたのだと思う。しかし、3度の追突事故を経験しても、私は自分を思いきり生きるという感覚が掴めずにいた。

 

当時、私は既に起業をしていたし、好きな時間に好きなことをして、自分なりに考えた上で満足のいく選択をしているつもりでいた。だから、自分を生きているような気がしていた。これ以上、どうやって自分を生きろというの?という感じだった。

運命からの最後のパンチは、出雲大社で思い切り食らった。友人と娘と出雲大社に行った日の夜、悪寒がして目が覚めた。風邪をひいたのかと思いきや、熱はみるみるうちに上がり、ついに41度を超えた。救急外来にて血液検査をしたところ、炎症反応が異常な数値​で、緊急入院。そして、翌日には寝たきりの危篤状態となり、余命宣告をされた。

余命宣告をされるのは2度目だが、心地よいものではない。血の気が引くような感覚になる。

 

娘を残して死ぬわけにはいかない。

死にたくないと心から思った。

小さな娘がベッドの傍で心配そうに私を見ている姿に胸が痛くなった。私の体には次々と紫斑が出来、激痛が襲った。原因は不明だが、私の体は播種性血管内凝固症候群という危険な状態に陥っていた。主治医より、出来るだけのことをする旨説明を受け、大量の書類にサインをした。輸血や点滴の雫を眺めながら、娘の成長をこれからもずっと見ていたいと祈った。

輸血と薬のおかげで奇跡的に山を越え、私は一命をとりとめた。

心の底からホッとした。​幼い子どもを残して死ぬことがこんなにも辛いのかと驚いた。小学生の頃に死にかけたのとはわけが違う。

入院中、NHKの朝ドラの「あさが来た」の主題歌であった「365日の紙飛行機」という曲がとても心に響いた。このドラマは実業家であり教育者の広岡浅子女史がモデルになっている。このドラマを見て、こんなことを思った。

 

私を生きるって、意図的にやるものでもなく、探すものでもないのかもしれない。

そんなことを感じた。

退院し、長い自宅療養生活が始まった。

私の体は壊滅的に破壊されてしまっていた。歩くのも、食べるのも、一苦労な状態だったが、幼い娘がいるので入院しているわけにはいかなかったのだ。

 

そんな療養生活中に、家庭裁判所から手紙が届いた。

そこには、元夫により面会交流の調停が申し立てられたことを告げる内容が記されていた。離婚して以来ほとんど連絡をとっておらず、彼を娘に会わせることをしていなかった。正確に言うならば、トラウマ的な身体反応でとても会えるような状態ではなかった。

離婚後、私なりにトラウマと向き合ったりDVについて勉強したりしたけれど、私はもう彼に対して出来ることはなにもないように感じていた。

病み上がりの身体を引きずり家庭裁判所に赴き、調停員と話しをしたところ、中立的な立場であるはずの調停員が元夫の味方をするような発言をし、ここに至った私側の文脈を鑑みない言動が見られたため、弁護士に間に入ってもらい、長い調停が始まった。

最終的に、私がここに至った文脈が理解され、直接会うのではなく書面での交流ということになったのだ。そして、私はこの調停によるストレスでメニエール病も発症してしまった。

私のことを何も知らない人たちから「子どもに会わせないあなたが悪い」という意見も沢山いただいた。しかし、もしその人が私の立場だったら同じことが言えるだろうか?と思う。

 

世の中には、当事者にしかわからない表に出せないレベルの様々なことがある、

そのことを慮る視点は大切だ。

この調停を機に、私はこのトラウマとしっかりと向き合うべくセラピーを受けはじめた。一般的なカウンセリングに効果は感じられず、最終的に行き着いたのがヒプノセラピーであった。1年ほどかけて、私の深い傷は癒されていった。

元夫とのことは、まだ未完了として心に残っていると思う。

最高のカタチで「完了」があるとするなら、そこには到底至れないような気がする。

今でも、どうすれば良かったのかわからない。死に物狂いで精神や心にまつわる勉強もしたし実践もしたけれど、答えが出ない。

 

この世界でアクセスできる事例や研究が対象にしているのは、あくまでもよくある事例であり、我が家のようなイレギュラーな事例はサンプル数が少なすぎて研究も進まないのではないかと思う。

コーチングや様々な心理療法をもってしても、あの課題の本質にたどり着くことは出来ないと思う。そいういう意味で、ある種、私はコーチングの限界も知っている。

あの日、あの時、何らかの必然で私と元夫は出会い夫婦になったんだと思う。こじれすぎて、会うことすら出来ない状態になり、別々の道を歩むことになったけれど、どうか幸せでいてほしいと思う。​ 

3度

​U理論との出会い

​「私は何者?どう生きる?」

数々死の危機や困難を乗り越え、私の精神と身体はリセットされた。

痛めていた膝は事故の衝撃で治り、慢性のひどい便秘も治り、低体温も治った。そして、これまで以上に世間体や既存のルールに盲目的に従うことに距離を置けるようになった。

 

私のことを誰がどんな風に思おうと、どんな風に関わろうとも関係ない。

良い意味で、多くのことに対して「知ったこっちゃねぇ!」そんな風に思えるようになった。

そんな私は、これまでの人生で体験してきたこと、培ってきたことを、社会に対して還元していくのがいいのかなと思っていたところ、友人から「母親支援活動をしない?」と声をかけられた。

そうして、現在は親のがっこうの活動を全国展開しているNPO法人ママライフバランスの創業に関わることになった。

 

創業に関わる一方で、私は個人としてコーチとしてどう歩むのかという問いに直面していた。

当時は、コーチとして生きていくのかどうかも曖昧で、目の前のことをただ一生懸命にやる日々だった。

そんな時、とあるコーチのメルマガを読んだ。

そこに書かれていた「U理論」という言葉が、なぜか光ってみえた。

これだ!!!!!と、なぜか思い、次の瞬間にはU理論のワークショップに申し込んでいた。

そして、U理論に関する書籍も日本語で読めるものは全て購入した。

本を読んでみたところ、さっぱりわからなかったのだが、自分の体験したことが体系立てられて書かれているということは感じられた。そして、私はU理論の世界に没入していくのであった。

U理論とはマサチューセッツ工科大学 経営学部上級講師であるC・オットー・シャーマー博士によって生み出された「イノベーションを個人、組織、社会のレベルで起こすための原理と実践の手法を明示した理論」で、世界中の革新的なリーダーの知見が原型となって生みだされているものだ。

世界中の革新的なリーダーに共通しているのは「死」であった。

本当に死ぬわけではなく、自分の中にある囚われや古い価値観(小さな自己)が死んだ時に、はじめて本当に大切なもの(大きな自己)から行動出来るようになるという世界観。

私はこのU理論の世界にとてつもなく響いていた。

なぜならば、私はこの人生の中で何度となく死んできたのだ。

この経験が生かせるものなのか!と知った時、大きな喜びを感じた。何度も「死」を体験した私にとって、常識や一般論で固められた世界はとてもつまらないものに感じられた。

U理論の世界観で人生を歩めたら楽しそうだな。

​そんな気持ちで、自分でもいくつかのワークショップを開催した。

合同会社No Bordersでも不定期だがU理論のワークショップを開催しているのでチェックしてほしい。

U

インテグラル理論

​「こっちゃん読んでみて!」

ある日、U理論仲間から、成人発達理論の本を勧められた。

幼児や児童の発達心理学は少しかじったことはあったものの、成人期における発達については全く知らなかったのだがU理論とも通じる点が多くありスルスルと頭に入ってきた。そして、インテグラル理論に行きついた。

 

インテグラル理論(Integral Theory)とは、アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーが創始した「自然科学や社会科学、そして芸術や人文学など、人間に関わるあらゆる主要な知識領域からの重要な洞察を織り合わせたメタ理論」だ。

 

この理論を簡単に表現するならば、1つのテーマに対して出来るだけ多くの視点を持ち捉えようとする方法を示したものと言えるだろう。

このインテグラル理論を読んだ時、私の中の傷がゆるやかに癒されていくのを感じた。

これまでの人生で、否定・非難・差別されてきた理由が理解できた。幾度となく「死」を体験してしまったことで、不本意ながら発達が進んでしまい、家族やコミュニティから異物として認識されて弾き飛ばされていたのだ。

「頭がおかしい」と言われるのは、発達の重心が私とは異なる人から見たら、そのように見えるだけなんだと理解できたこと、これまでの不可解な出来事にまつわる人々の意識の構造を仮説として捉えられたことは大きな救いになった。

インテグラル理論を用いて人生の答え合わせをしていく中で、この先の発達の地図に触れていくのも楽しかった自分の発達が進むにつれて、世界の見え方がこんな風に変化する可能性があるのか!と想像するのも豊かな時間だ。

この知識や実践をビジネスで生かすつもりはなかったのだが、対人支援職の中で「コーチング・成人発達理論・U理論」を理解し実践している人が、ほとんどいないということで、様々なところからお声がかかるようになった

個人を対象にしたコーチングセッションから、組織開発へと仕事の幅が広がった。チームや組織観察すると、いわゆるツボが見えてくる。ここを押すと、こう動く!といったシステムが見えてくる。鍼灸治療や整体に近い感覚かもしれないが、全体の構造を見ながらツボにアプローチしていく感覚が内側からどんどん湧いてきた。

幼いころ、こっそりと祖父の会社の事務所や現場を観察したり、社員さんと雑談していた経験が生きた。私は当時から、フレデリック・ラルーが書籍”ティール組織”で伝えているところの組織の構造について、無意識のうちに観察・分析をしていたようだ。
私の祖父の会社は代替わりをした時に、会社の構造も雰囲気も何もかも変化してしまったのだが、それは経営者とボードメンバーの発達の重心と意識構造と深い関係がある

どのようなタイプの人が、どのようにマネジメントを行い、どのような影響が会社全体、ひいては取引先に影響を及ぼすのかを、趣味で考えに考え抜いていた小学生時代。大人に口出しすると「生意気なんだよ!」と総攻撃されたが、その経験が使えるとは!目からウロコだった。

​ありがたいことに私の組織開発の仕事は評価され、継続的に伴走させていただいていることが増えていった。

​私は自分の人生を本質的に生かしていくフェーズが来たことを悟った。

インテグラル

コーチング

​私のコーチングの土台はCTIだ。

シングルマザーの私にとっては、トレーニング料がなかなかのお値段というところと幼い娘を置いて東京まで通うことに抵抗があり、なかなか踏み切れず、迷いに迷ったあげくの受講だったが、この選択が私の人生を変えた。

※CTIは世界最大のコーチ養成機関。

 

CTIで学び実践が出来るのは「コーアクティブ®コーチング」というスタイルのコーチングだ。コーアクティブというのは「協働的」という意味で、コーチングをする側(コーチ)と受ける側(クライアント)が対等なパートナーとして、クライアントが心から望む人生を生きられるよう互いに力を合わせるという関係を大切にしているところに特徴がある。

 

CTIに至るまでにも、社会適応するために身に着けた様々な鎧は脱ぎ捨ててはきたものの、トレーニングの中でさらにどんどん脱ぎ捨てていった。最終的には、仲間と涙と汗まみれになりながら、もみくちゃになっていた。笑
 
コーチングの練習中に「そんな、つまらねぇコーチングしてんじゃねーよ!」と泣きながら仲間に言われたこと、ファカルティ(講師)に練習の中で「もっと本音でぶつかってこいやぁぁぁ!!」と叫んだことなど、懐かしい思い出だ。

そのトレーニングで出会ったのが、今、一緒に合同会社No Bordersを運営しているあっちゃんとナベさん、そしてTHE COACHおかちゃん、ひとみんである。一緒に働いている仲間(沢山いすぎて名前が書けない!)の多くもCTI出身だ。

合同会社No Bordersは、私が「何か面白いことやりたいなー」というSNSのつぶやきから始まった。THE COACHは上級コース同期のおかちゃんから声をかけてもらい創業期から一緒に走っている。

コーチングの面白いところは、コーチ自身の在り方が常に問われ続けるということだ。そういう点では、猛烈にハードな仕事だと思う。

自分の枠を超える何かにチャレンジしたり、自分の弱い面や見せたくない部分にも向き合い続けていくのだから。ハードだけれど、飽き性な私にはピッタリな仕事だと思う。

時に、自己開示力が高すぎて、ドン引きされることもあるけれど、隠してもバレるので、出した方が楽だと思っているだけである。

そして、人は思っている以上に、自分のことなんて見ていないので、さらけ出していいんだと思う。​自分が楽なのが、一番いいんじゃないかな。

CTICTI

娘の可能性

​私の娘は、私が言うのもなんだが素晴らしい子だ。

毎朝、顔を見る度に心の底から素晴らしいと思うし、出会えてよかったと感じる。

娘が生まれてすぐに離婚、実家を出て、起業して、シングルマザーであることでバッシングを受けたり、過労で何度も倒れたり、何度も死にかけたりと、私は娘の大切な時期にかなり激動な日々を過ごしていた。そんな中でも無我夢中で、優先順位のトップに娘を置き、必死に子育てをしたと思う。娘の存在はとてつもなく大きい。

初めての子育て、頼れる人が誰もいない中で、私はなんとか一人前の人間に育てなければというプレッシャーの中で生きていた。読み書き、そろばん、ピアノ、幼児教室、スイミングなど、幼児期にやると良いであろうことは色々とチャレンジした。家でも、出来る限りのことは頑張った。

時間の許す限り話をした。絵本の読み聞かせや、散歩、休日の旅行なども出来る限り行った。

娘は保育園の年中になる頃には、読み書きが出来るどころか、歴史小説が読めるレベルになっており、歴史上の偉人たちから在り方の影響を受けるまで至っていた。

しかし、娘はクラスの誰とも話が合わなくなっていった

(娘が好む話題が「歴史」や「城作り」など抽象度が高いものであったため、誰もついてこれなかった)

特殊な家庭環境で育ったことで内省の機会が多かったこと、能力開発にも力を入れていたため、垂直的成長(意識の発達)と水平的成長(能力の成長)が急速に進んだのであろう。

そんな流れから小学校受験をすることになったのだが、この時に、私ははじめて娘の可能性を開くとはどういうことかという問いを持った。そして、私がこれまで良かれと思ってやってきたこと全ては、もしかしたら娘の可能性に蓋をすることになっていたかもしれないと気がついた。

 

たしかに、私のこれまでの教育方針で、娘は爆発的な成長を遂げてきた。しかし「娘が子どもらしくいる」時間や「ただただ意味のない状態」を解放する機会が、果たしてあっただろうか?と。

この複雑性の高い世の中で生きていくために必要な力を身に着けてほしいと願い、これまで教育してきたけれど、それは違うなと思った。

「娘には娘の人生を生きる力があるんだ!!」それを信じて子育てをするという方向に大きく舵を切りなおした。

習い事も、娘が本当にやりたいことだけを続けることにした。「やりたい!」と続けたものの中でも「やっぱり違う、やめる!」と言ったら、それを認めた。出来るとか出来ないとかを横に置いた。

​「私たちの笑顔が一番大事よね!」と、小学校受験対策期間中にも拘わらず、1ヶ月ヨーロッパを周遊したり、娘が本当に願っている声に耳を澄ます時間を意識した。

試験は無事に合格。娘は自分で選んだ学校に通っている。

これまでほとんど娘の学校生活について管理したことはないけれど、娘自身の力で持ち物も宿題も成績も友達との関係もうまいこと波を乗りこなしている。たまに相談されることはあるけれど、基本的には自分なりに考えて、自分なりに行動している。

娘が「ママにはママの人生があって、私には私の人生がある」と言う時、笑ってしまう。こういう世界観は私譲りなのかもしれない。

娘は直感的に世界を見通す力、計り知れないやさしさ、芯の強さ、真摯さ、美しさ、想像力を兼ね備えている。娘といるだけで、なんとも言えない幸せな気持ちになる。とても不思議なのだけれど、こんな子が世界に存在していると思うだけで、なんだか本当に救われた気持ちになるのだ。

​娘と出会えたことは私にとってかけがえのないギフトだ。

コーチングを教える

​コーチングを教える

CTIの上級コースを修了して数か月経った頃、コースの同期であるおかちゃんから連絡があった。同期ではあるが、特別仲が良いわけでもなく、ほとんどコミュニケーションをとったことがなかったので、驚いた。コーチの中でフォロワー数No.1のこばかなと事業を立ち上げるとのことで、定期的に話をすることになった。

そのご縁で、THE COACHの立ち上げに関わらせてもらうことになった。そして、こばかな・おかちゃんと私で、これまで学び実践してきて良かったものを精査し、カリキュラムにめいっぱい詰め込んだ。

エッセンスを詰め込みすぎて、正式リリース前に受講していただいた方には、頭が爆発するようなインパクトを与えてしまったかもしれない。でも、その時のご縁が今も続いていたりするので、とても嬉しい!

​私のコーチングの土台はCTIであるが、提供するセッションの中にはイノベーション理論であるU理論をはじめ、インテグラル理論・成人発達理論・NVC・ゲシュタルト療法・NLPなど様々なものの叡智の要素が込められている。なぜ、そんなことになっているのかというと、私の周りの人間関係が複雑すぎて、様々なものを応用して工夫していかざるを得なかったからだ。

コーチングには様々な定義とスタイルがある。私はTHE COACHのカリキュラム開発をしているが、他のスクールやスタイルも素晴らしいと思っており尊重している。何故THE COACHで独自のカリキュラムを開発するに至ったのかというと、繰り返しになるが、私が生きていく上で、様々なものを応用して工夫していかざるを得なかったプロセスの中で編み出されたコーチングスタイルが沢山の人のお役に立てそうな気がしたからだ。

THE COACHに関わる前も、コーチングを教えたり、研修をしていたことはあったけれど、スクールでカリキュラム開発からリードまでするというのはとても新鮮だった。

私のTHE COACHでの役割は沢山の人の役に立つコーチングを伝わりやすい形にすること・それを届ける人を育てていくことだと思っている。

​再婚

​THE COACHのコーチング事業が無事リリースされ、軌道にのり、一緒に働く仲間がどんどん増えた。その中の1人に、今の夫のおくちゃんがいた。

仕事仲間として、何度か一緒にコースをリードするという業務以外は特にコミュニケーションをとったことがなかったけれど、働きやすき人だなぁという印象はあった。

​そんな彼は、当時、多拠点生活を試みており、国内外の様々な場所で仕事をしていた。そんな中で、彼がヨーロッパから帰国する際、コロナウィルス対策として自主隔離をしなければならないという状況が発生した。「うちにおいでよ」と言った記憶はないのだけれど、何かのタイミングで私は彼にそう言ったらしい。(うちは一軒家だけど娘と2人暮らしで部屋が余っていたので、そういう話をしたのかもしれない)

そんな流れで、彼がしばらくの間、うちに滞在することになった。娘に「仕事仲間の自主隔離先として、その人にしばらくうちにいてもらうことにしたよー」と伝えた際にも「はいはーい」という感じで、まさか、そこから結婚することになるとは思ってもみなかった。

彼がうちにきて、仕事以外の話をするようになり、意外と色々な面で話が合うことに気がついた。私はプライベートにおいて特定の人とパートナーシップを結ぶことに辟易していたし、仕事仲間だと思っていたので、彼を異性としてみるというよりは良い友達が出来てよかったと思っていた。

しかし、一緒に暮らすというインパクトはすごいもので、自然とお互いの人生に真剣に向き合った上で一緒に歩んでいこうという流れになった。

おくちゃんのすごいところは、私が決めていた「二度と結婚しない」という気持ちを覆したところだ。結婚という文字はは私の辞書から抹消していたため、最初は困惑した。彼は、とてもピュアでスッと何かを開いてくれるエネルギーを持っている。そんな力に、私は何度も救われている。

娘は最初、再婚について「ママが苦労することになるからイヤだ!」と反対していたけれど、今は「ママの人生だからね」と受け入れてくれている。

離婚して以来、1人の方がずっと効率がよく、葛藤もなく、自由で楽だと思っていた。私一人で、お父さん役もお母さん役も出来ると思っていた。しかし、再婚してみて、改めて思うのは、そういうものを超え、ここに学びが沢山あるということ。

よくわからないけれど、なんだか温かい感じ。とか、不条理で理不尽なんだけれど許容できる感じ。とか、理由はないけれどなんだかいい感じ。とか、そういう不思議さが生活に溢れた

そして、喧嘩もよくするようになった。結婚生活はシャドウワークと言っていた人がいたけれど、確かに、見たくない面やうんざりする面がこれでもかという程、適切なタイミングで出てくる。見ないように生きることも出来たけれど、ここに向き合うことが、お互いの人生において必要だったんだなぁと感じる。

そして、改めて「愛」とは何かを探究する機会にもなっている。私はそれまで「人類愛」的な感覚が大きかったのだが、再婚してからはもっとミクロな視点と視座で世界とコンタクトが取れているような感覚である。

私と娘は10年間、2人で生きてきた。そこに彼が加わるというのは、お互いにとってチャレンジだった。私と彼は夫婦だけれど、娘にとって彼は父親ではない。対外的には「お父さん」という役割の人がいますとは言えるけれど、父親ではなく、おくちゃんはおくちゃんという感じだ。

私は、それが我が家らしくていいと思っている。

私が個性的で破天荒なところがあるにもかかわらず、いつも隣にいてくれる2人に、とても感謝している。

さいこん

​流産

​再婚を決めたものの、どのような形で婚姻関係を結ぶのか、しばらく決め切れずにいた。

そんな中、妊娠していることがわかった。

 

妊娠を機に、事実婚という形で夫婦になることを決めた。

もし、この妊娠がなかったら「一緒に暮らしているパートナー」という関係性に落ち着いていたような気もする。

妊娠がわかった時、私自身も嬉しかったし、彼も娘もとても喜んでくれた。娘を妊娠した時は、誰も喜んでくれないどころか堕胎寸前のところまで追い込まれたということもあり、こんなにも安心して妊娠していることそのものが奇跡のように思えた。

意外だったのは、娘が喜んでいたこと。ひとりっ子で甘えん坊の娘は幼い頃「ママは絶対に再婚しないでね!赤ちゃんも絶対に産まないでね!私だけのママだから!」と言っていた。私もそのつもりでいたけれど、再婚することになり、妊娠までして、どこか娘を裏切ってしまったような気持ちがあった。

喜ぶ娘を見て、”娘は本当は兄弟が欲しかったのかもしれない。そして、お父さんみたいな人がいたらいいなと思っていたのかもしれない”と感じた。​人一倍働いて、頑張っている私を見て、娘は”お父さんや兄弟がいる生活を夢見てはいけない”と、そんな想いを封印していたところもあるのかもしれない。

お腹に宿った命に想いを馳せるとき、温かい気持ちになった。色んなことがあったけれど、また、新しい家族が増えるのだと思うとワクワクした。

2022年4月11日に区役所に事実婚の届け出を出し、同月末にSNSで事実婚の報告をし、ホッと一息ついた日の夜だった。

鈍い腹痛とともに、お腹に宿った小さな命は空に旅立ってしまった。まるで、事実婚を見届けてお役を終えたように、スッと消えてしまった。どんなに小さくても、私は、そのいのちのお母さん。いのちの重みは同じ。深い悲しみに襲われた。

​流産のタイミングと重なるように、家族の中で一波乱あり、体調面と精神面で大きく揺れる日々が始まった。

とくさん

​結婚後の変化

事実婚をして変化があったのは、関係性に名前がついたことだ。

​社会に向けてスタンスを表明する際、関係性を表すことが出来るのは便利だと思う。「夫婦です」と言えることが、こんなにも楽なのかと思った。

妊娠して産婦人科に行った際、問診票を書く時に”家族の欄”があったのだが、彼の名前を書くことが躊躇われた。結婚していないと、まず、続柄に何を記入すべきかがわからない。思わず、母の名前を書きそうになった。たかが「役割」、されど「役割」だと感じた。​

夫婦という関係性の名を得たことで、リアルな関係性も少し変化したように思う。それまでは、おくちゃんに対して、どこか「お客さん」という感覚があったのだが「一緒に生活を創る人」という風に見えるようになった。それにより、お金の話などもするようになった。

お客さんとして家に滞在してもらう場合は生活費を要求できないけれど、夫婦だったらお金を半々で出し合うものだよね?とか。(前の結婚の時は私が負担していたので、半々出し合うスタイルに憧れていた)

私たちは事実婚という形を選択し、戸籍上は夫婦ではない関係なのだけれど、このスタイルを気に入っている。

夫婦以外でも変化があった。それは、私の弟だ。

私は弟がいる。弟は、おくちゃんと同い年で、誕生日もかなり近い。そんな弟は、複雑な家庭環境の影響を受け、10年ほど前から実家に引きこもっている。お金には困っていなさそうなので、きっと何かオンラインで収入を得ているとは思うが、詳細は聞いたことがない。

弟はとてもやさしい。本当に、やさしい。そして、性格も良い。哲学的で、マイペースで、ウィットに富んでいる。しかし、そこが裏目に出た。

私の生まれ育った環境は商売人&成り上がり文化が根付いており、哲学的素養やウィットに富んだスマートな在り方は全く必要とされなかった。必要とされないどころか、欠点として扱われ、それはそれはひどい扱いを受けた。

私も家族から「この子は頭がおかしい」とよく言われたものだが、弟はその100倍は言われていたと思う。幼少期から青年期にかけて、自己肯定感を木っ端みじんに砕かれた弟であったが、20代前半は生きる力を振り絞り、なんとか就職に至った。(家族の関わりに悪気はなく無自覚な認知バイアスの影響で望まないコミュニケーションになっていた)

しかし、色々な歪みが限界を迎え、ついに家から出られなくなってしまったのだ。そんな弟のことを、おくちゃんは差別をすることなく対等に接してくれた。

弟は私がおくちゃんと結婚してから、少し明るくなったように思うし、なんだかいい感じがする。姉として、とても嬉しいことだ。なんとか、弟の力になりたくて、色々関わってきたけれど、最終的にわかったのは、私が幸せでいることが一番大事なんだということ。

私に出来ることは、私が幸せでいることしかないのかもしれないと思う。

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​No Borders法人化

流産をした翌々月、地道に活動してきたNo Bordersというコーチングユニットをついに法人化した。合同会社No Bordersの誕生である。

「人生にイノベーションを!」を軸に活動し続け、早いもので3年目だ。仲間のあっちゃんの声掛けで法人化に至り、とても感慨深かった。あっちゃんととなべさんとは息が合い、多くを語らなくてもダンスをするように動ける。ありがたいなと思う。

No Bordersが創る場では、メンバー全員のリソースがフルに詰まったものを提供している。それぞれの個性と特性を生かし合い、感じるままにコンテンツを作っている。No Bordersの創るコンテンツはアートの要素が多いのだけれど、それは3人の根底にアートがあるからだと思う。

3人とも芸術が大好きで、各々アートを楽しんでいる。私は若い頃、専門的にアートの世界にどっぷり浸ったけれど、2人はまた違った入口でアートとの関わりがある。様々な視点を尊重しながらシナジーを起こせるのも、No Bordersの強みかなと思っている。

 

No Bordersは人間中心の社会の枠を超えて、再び自然との繋がりを取り戻していくことを意識している。そして、びっくりするような温かく思いやりに溢れた世界を創造することを願っている。


 No Bordersという名前の由来は文字通り「境界線を超えていく」というスタンスを表している。この世界に、本当は境界線なんてない。何かに線引きをしたり、分断したりする前に、私たちは本来ひとつだったはずでしょう。そんな風に思う。

私は私。あなたはあなた。これは、ある意味で線引きみたいな表現だけれど「我・汝」の関係性だと、私はあなたで、あなたは私になる。一見、矛盾しているようだけれど、この世界観を私はとても大切にしているし愛している。

No Bordersの皆で楽しみ遊びながら、創造性の可能性を提供していきたい。

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​ARUKUKI法人化

流産後にNo Borders法人化、その3か月後に今度は夫婦で立ち上げた対人支援ユニットARUKUKIも法人化した。ARUKUKI株式会社の誕生である。

小さな命は失ってしまったけれど、大きすぎるくらい大きい存在が2つも誕生した。合同会社No BordersとARUKUKI株式会社。みんなで大切に育てていきたいと思う。

ARUKUKIはおくちゃんが絶不調で停滞していた中、私の中に突然インスピレーションが降りてきたことがキッカケで誕生した。「歩く木」という言葉が頭の中にポン!ときた時、意味が解らなかった。

なんだろ?と思い、調べてみるとガジュマルの木に辿り着いた。ガジュマルは枝から根を垂らし、数十年から数百年かけて本当に移動するらしい。だから、別名歩く木と呼ばれている。このことを知った時、腹落ちした。

人の成長は一朝一夕では起こらない。ゆっくりと時間をかけてシフトしていくものだ。そんな世界観を私もおくちゃんも大切にしていた。インテグラル理論や成人発達理論に触れると「発達が善」と勘違いしてしまうことがあるけれど、実際には「善」かどうかは関係なくて、ただそこに「在る」だけなのだ。必要なのは丁寧な観察・実践と振り返りであり、決して無理に何かアプローチをしようとすることではない。

人間の本質的な成長・発達の支援ができたらいいねという2人の願いのもと、ARUKUKIは生まれた。この活動のために、私もおくちゃんも改めて人生の棚卸を沢山した。これでもかという程、丁寧にこれまでの人生のプロセスを各々が見つめ直した。その結果、新たなシフトも起こった。そして、新たな葛藤も起こった。その全てのプロセスが、沢山の人に還元されることを祈り、互いに真摯に向き合う日々だ。

LDMA(Lectical Leadership Decision Making Assessment)という、アメリカのマサチューセッツ州を本拠地とする発達測定を専門とするレクティカ(Lectica, Inc.)が開発した測定を軸としたプログラムを2人で受け、その結果や課題の実践などを通して、確実に人の成長を支援できる手ごたえを感じている。

※レクティカの測定は発達測定の中でも最も正確性の高いものとして世界的に知られている。

​インテグラル理論や発達理論の専門家の方とのコラボレーションの話も進んでおり、今後の展開が楽しみだ。

ああ
くろ

​黒歴史を使う

​「黒歴史」とは、ガンダム用語で「封印された歴史」を指し、一般的には「無かったことにしたい過去」の意味で使われるスラングである。

 

私の人生は振り返ってみれば、凸凹で支離滅裂でトンデモに溢れていたが、今、こうして対人支援職として活動するに至り気づいたことがある。それは、他者に見せたくないもの、恥だと感じるもの、醜いもの、タブーなもの、つまり黒歴史を受け入れないと、対人支援という仕事は務まらないということだ。

目の前にいるクライアント、チーム、組織は、待ったなしのガチな世界で生きている。

支援者である私が「イケてるコーチでありたい」「良い気づきを与えたい」などと思うことは、全くクライアントのためにならない。むしろ、害にしかならない。

クライアントは今を生きている。私の都合はどうでもいい。

支援者である私がガチでいることだけが、唯一出来ることなのではないかと思う。私の生きてきた全てで関わる以外、何も出来ることはない。

私は破天荒で、不器用で、思い込みが激しくて、失敗ばかりの人生だったけれど、つかみ取ってきたもの、傷ついたからこそ得られたもの、かけがえのない人とのつながり等数えきれないギフトも持っている。

私はかっこよくないけれど、生きる歓びには根ざしていると思っている。​そして、色々あったけれど、私として生まれ、この命を生きられること、この人生を気に入っている。

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